10月のARTカレンダー

10

october

ファン・グリス 1887-1927

<ヴァイオリンとギター)1913年

油彩・カンヴァス

81 x 60 cm

Photographic Archives Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía

ファン・グリスは、ピカソ、ブラックに次ぐ第3のキュピストともいわれる、キュビスムの展開に重要な位置を占めた画家である。

キュピスムは、ピカソとプラックによって1907年頃から始められた20世紀最大の美術運動のひとつである。19世紀前半以前の絵画は、2次示である平面上に、いかに3次元的な立体感、奥行き感を再現するかということに腐心し、違近法やモデリングの技術を駆使して、本物そっくりのモノや空間を作り出そうとしてきた。しかし 19世紀半ば過ぎから20世紀にかけて、むしろ絵画は2次元の平面であることを自覚した表現を行うべきだといら考え方が登場する。その回答のひとつがキュビスムであった。違

近法的な空間を表現するためには、画家は視点を固定して描く必要がある。

そうしなければ、描くモチーフ同士の位置関係が狂ってしまうからだが、キュビスムはそれとは正反対に、正面だけでなく、横や上、下や向こう側など、あらゆる視点からモチーフを観察し、その結果を1枚のカンヴァス(平面)上に統合しようとしたのである。「多視点の導入」と呼ばれるこの方法は、すでにセザンヌなどによって先駆的に行われていたが、キュビスムにおいて徹底された。絵画へのアプローチを根底から覆す試みであった。

グリスは1911年頃からこの運動に加わり、ピカソやブラックとは異なるスタイルのキュビスム作品を作り出した。具体的には、ピカソやブラックのキュビスム作品が、黒や茶が主体のモノクローム的な画面であったのに対し、グリスは初期の頃からさまざまな色彩を積極的に用いたカラフルな画面を好んだ。またフォルムも明快で、ほかの2人の作品に比べて、元になったモチーフが認識できる場合が多く、個々のモチーフの立体感が意識されていた。グリスはキュビスムの創始者ではなかったが、最初期にとの運動に加わり、独自性を打ち立てた点で大きな存在感を示したのである。

グリスはスペインの画家である。1887年にマドリードで生まれ、最初エンジニアリングを学んでいたが、1904年からアカデミスムの歴史画家ホセ・モレノ・カルボネロ(1858-1942年)に絵画を習う。ホセ・ビクトリーノ・ゴンザレス=ペレスという本名だったが、ファン・グリスと名乗るようになるのはこの頃のことである。

1906年にパリに出て、ピカソやブラック、文学者のギョーム・アポリネールやマックス・ジャコブなどと知り合い、ピカソらが住んでいた共同住宅、通称「洗濯船」に住んだ。パリ時代の当初は、「ラシエット・オ・プール』や『ル・リール』『ル・シャリヴァリ』などの風刺雑誌にブラック・ユーモアに満ちた挿絵を描いていたが、1911年頃から本格的に絵画に取り組む。翌年のアンデパンダン展で初めて作品を発表した。同じ年のフェルナン・レジェなどが参加していたキュビスムのグループ展「セクシオン・ドール(黄金分割)」展にも出品し、キュビスムの画家としての評価を高めていく。画商のダニエル゠ヘンリー・カーンワイラーと契約するのもこの頃のことである。

1913年頃から、バビエ・コレ(コラージュ)の技法を取り入れるなど、スタイルを少しずつ変化させていく。第一次世界大戦の間はパリで制作を続け、1919年に初めての個展をギャラリー・レフォール・モデルヌで開催する。また、1922年から1924年にかけてディアギレフのバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のために、バレエ「女いの誘惑』とオペラ『鳩」の美術を手掛けている。しかしての頃から体調が思わしくなく、

1927年に40歳で亡くなった。

本作は、グリスが個々のモチーフのヴォリュームを表現した初期のスタイルから、より平面性を意識したスタイルに移行しつつある時期に描かれた。画面右のコップや左側の緑のボトルなどにわずかながらヴォリューの痕跡は残るものの、全体は小さく区分けされたグリッドが連なる、平面的な印象の強い作品となっている。

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