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november
サルバドール・ダリ 1904-1989
<静物)1924年
油彩・カンヴァス
125x 99cm
本作はサルバドール・ダリと詩人で劇作家だったガルシア・ロルカの、若き日の交流を物語る貴重な作品である。
1904年にフィゲラスで生まれたダリは、最初にラモン・ピチョット(1871-1925年)に絵画を習った。ピチョットはバルセロナの前衛力フェ「4匹の猫」の展覧会に参加したことがあり、ピカソの友人だった。
ダリは1922年にサン・フェルナンド王立芸術アカデミーに入学し、マドリード学生寮でルイス・ブニュエルやロルカと知り合う。1925年にはバルセロナのダルマウ画廊で初の個展を開催。アングルやキュビスム、デ・キリコなどの影響を感じさせる多彩な作品が展示された。1926年、アカデミーの試験委員会の無能さを公然と批判したため放校処分となる。
1927年にダルマウ画廊で2度目の個展を開催した。
この頃にはすでにダリの前衛性は明確なものとなっており、1929年にはパリに行き、ミロの紹介でシュルレアリストたちと交流する。また、ブニュエルと共同で制作した前衛映画の傑作『アンダルシアの犬』を上映し、シュルレアリストのグループから高い評価を得た。
1930年代に入るとダリは<記憶の固執>(1931年、ニューヨーク近代美術館蔵)などの傑作を次々と発表し、シュルレアリスムの巨匠としての名声を確立する。1934年にシュルレアリスムのグループから除名されるが、アメリカでも活躍の場を広げるなど、名声は高まる一方だった。
同年に詩人ポール・エリュアールの妻だったガラと結婚、以降ガラはダリのミューズとなり、同時にダリの生活を支配するようになっていく。
1974年に故郷フィゲラスにダリ劇場美術館を開館、その後パリのポンピドゥーセンターやロンドンのテート・ギャラリー、さらにスペイン国内でも大規模な回顧展が開催され、20世紀スペイン美術の巨匠として名声を極めた。ダリが亡くなったのは1989年のことである。
一方、グラナダ県の小村で1898年に生まれたガルシア・ロルカは、最初グラナダ大学で法学と文学を学んだ。1919年にマドリードに出て、ダリと出会ったマドリード学生寮に住む。1920年に最初の戯曲「蝶の呪い』が初演されるが、全く評価されなかった。1927年の2番目の戯曲『マリアナ・ピネーダ』は評判が良く、翌1928年に発表した詩集『ジプシー歌集』も文壇から好評をもって迎えられ、一気に名声が高まる。
1931年に「カンテ・ホンドの詩」を出版、1933年には『血の婚礼』初演が大成功を収め、翌年には『イェルマ』を初演するなど、活躍の幅を広げていく。しかしスペイン内乱に巻き込まれ、1936年に銃殺されて38歳の人生の幕を閉じた。
1922年にマドリード学生寮で出会った2人は友情を深めていく。1926年にロルカが「ダリ頌歌」を『レビスタ・デ・オクシデンテ(西洋雑誌)』に発表すると、翌年ダリは、ロルカに捧げたテクスト「聖セバスティアヌス」を『芸術の友』誌に掲載する。また同年、ロルカの『マリアナ・ピネーダ』の美術をダリが担当するなど、2人は知的にも芸術的にも濃密な
8年間の交友を続けたのである。2人が一緒に写った写真が数多く残っているが、友情以上の関係にあったと思わせるほど親密そうに見える。実際には同性愛者であったロルカの愛情をダリは拒絶したといわれる。
1924年にダリが描いたこの静物画は、ダリがロルカに贈った作品である。マドリード学生寮のロルカの部屋で撮られた1925年の写真には、椅子に座るロルカの背後の壁にとの作品が掛けられている。(サイフォンとラム酒の瓶>というタイトルでも知られる本作は、若き日のダリがキュビスムとイタリアの形而上絵画に影響を受けていたことを示している。特に後者は、ダリとロルカがマドリード学生寮で愛読していたイタリアの雑誌『ヴァローリ・プラスティシ(造形価値)』誌でよく紹介されていた。ロルカはこの作品を亡くなるまで手に置いていたという。
※ダリの皿は店内に飾っております♪